◇第1章 生き残るには法則がある
《不思議な力が人々を守った》

奇跡的に助かった人がいる

「先生、信じられないことが起こりました」

1月20日(本書初版当時)、私のオフィスにKさんが訪ねてきた。急ぎだというので会ってみると、いつになく興奮した声でこう話しだしたのである。

Kさんは、7年ほど前に私のところに自分の事業に関する問題をかかえて相談にこられた方だ。それ以降、みごとに立ち直ったKさんは、いまでは私の事行(じぎょう)を支援してくれている一人だ。

Kさんは、阪神大震災で被災した兵庫県宝塚市に実家をかまえている。Kさんは、単身で東京へ赴任していて、妻や子どもはその実家に住んでいる。彼の話ではこうである。

──地震が発生したとき、奥さんは、たまたま朝早く目がさめて、台所へ行って家族の朝食の準備をしていた。地震と同時に寝室のタンスが倒れてきて、いつもなら寝ているはずの奥さんのふとんを直撃した。そのそばには子どもが寝ていたのだが、その子どものふとんにもタンスが倒れてきた。ところが、そのとき、なにかの拍子にタンスの扉が開き、子どもの体がちょうどその観音開きの戸の間にすっぽり入ったかっこうとなり、圧死をのがれたどころか、無傷であった。

さらに、近所の家は瓦が落ちたり、倒壊したりしたのに、彼の家だけが瓦一枚落ちてはいなかった──

なんとも不思議なものだ。聞いた私でも耳を疑いたくなるほど話が出来すぎている。しかし、それが事実であることは、Kさんの撮った写真が立派に証明してくれた。

*    *    *

1995年1月17日午前5時46分──のちに〝兵庫県南部地震〟と命名される巨大地震が、近畿地方を襲った。大都市を直下型の大規模地震が襲うという、関東大震災なみのこの地震は、高速道路や鉄道、道路の分断など、甚大な都市災害をもたらしたばかりか、5千人を超す死者と10万棟にものぼる家屋損壊という戦後最大の大惨事となってしまった。

軒並みつぶれた木造の家屋、横倒しになったビル。瓦礫(がれき)の山。あちこちから、ぶすぶすと煙りが立ちのぼっている。一瞬にして家屋を失い、焼けただれた街にぼう然と立ちつくす人々。愛する家族を失って泣きさけぶ姿……。

テレビの画面に映し出されたこのありさまは、まるで先の大戦の焼け跡さながらの光景であった。

戦争を直接体験した人たちも、また、戦後に生まれて記録映像でしかあの惨劇を知らない人たちも、みな一様に、かつての空襲の惨状を思い出したのではないだろうか。崩れ落ち、焼けただれた神戸の街は、戦争によってもたらされたあの惨たんたる光景にあまりにも似ていた。

 

ところがそんななかにあっても、不思議な力がKさんの家を守った。Kさんの例だけではなく、この大震災で、いくつもの〝奇跡〟が生じている。

たとえば、周囲の家がすべて倒壊し、鉄筋造りの建物でさえも原形をとどめぬほどに押しつぶされているというのに、たった一軒だけ無傷で残った木造家屋がある。空爆を受けたような一面の瓦礫のなかに一軒だけすっくと立ちつくすその姿を見ながら、人々が「なぜあの家だけが」と首を傾げている。

それから、忘れてはならないのが、地震発生時に「たまたま」被災地を離れていた人々の存在である。出張で他県に行っていた、親せきの吉事に招かれて神戸を出ていた、旅行に出ていたなど、その理由はさまざまであるが、いつも居るはずの人が「たまたま、その日、その時刻に」被災地・神戸を離れていたことで、地震に遭遇せずにすんだのである。

直後の報道で耳にしただけでも、こうした奇跡的事実は枚挙にいとまがないほどだ。暗闇のなかで妻の歌う「赤とんぼ」を支えに生き延びた夫。55時間も瓦礫の下に埋まりながら救出された園児。愛犬が一昼夜鳴きつづけたおかげで生存が確認され、つぶれた家屋の下から救出された老婆。倒壊してポッキリと折れた高速道路で、宙ぶらりんの状態のまま落下することなく助けられた観光バスの運転手……。

まさに生と死の境目で彼らは踏みとどまったのだ。家屋が倒壊したとき、もし彼らの頭を落下物が直撃していたなら。生きる気力さえ消え失せそうな寒さと闇のなかで、もしも自分を励ましつづける声が無かったなら。バスのスピードがもう少し出ていたならば……。「もしも」そうであれば、彼らはたぶん、死にいたっていたと考えることもできるだろう。

この薄皮一枚の境目で分かたれる生と死。それを決定するのは、もはや人間の意志ではない。そこには、やはり大自然の不可思議な力が存在しているのだと考えるよりほかない。