◇第1章 生き残るには法則がある
《いまの生き方しだいで明日は変わる》

人生を決定するのはその人の(おも)

あなたの人生はあなた自身がつくっているとすれば、人生はあなたしだいで変えていけるということにほかならない。

しかし、ほとんどの人間は、自分の人生が思うように運ばないことを重々知っている。人間はさまざまな試練を経験しながら生きる。そんななかで、人生の中途で挫折する者も多くいる。そして、突然の事故や災難に遭う人も出てくる。

つまり、自分の考えている理想と、現実のギャップに多くの人間は苦しめられることになる。「なぜ自分はついていないんだろう」と悩むことになるのである。

これが、私のいう、首から上の自分と、首から下の自分である。

言い換えれば、人間には、首から上の「思い」と、首から下の無意識に出る「(おも)い」の二つがつねに併存しているのである。

「思い」とは、すなわち首から上の思考であり、「(おも)い」とは首から下の想念のことだといえる。たとえば、だれかを好きになったとき、あの人のここが好きなのだと理屈をつけて意識するのが「思い」であり、理屈抜きに胸がしめつけられるような切なさがこみあげてくるのが「(おも)い」である。

これについてもう少しお話しすれば、人間の現実生活をつくるのは「(おも)い」である。一つひとつの思考や行動ではなく、「(おも)い」なのだ。こうイメージしていただけるだろうか。……世界は、目に見える物質的なレベルと、目には見えない非物質的なレベルとが緊密にからみあって成りたっている。私たちが「現実」だと認識するのは物質的レベルのことであるが、じつは、この物質的な事象、つまり「現実」を動かすのは、非物質である目に見えぬ力動(りきどう)であるのだと。

この非物質的レベルの力動が、「(おも)い」であるのだ。原因があってこそ結果があるのだということはすでに述べた。ここでいう原因にあたるのが、つまりは「(おも)い」という力動なのである。すなわち、人の現在も未来も、物質的レベルの現実の行動によってつくられるのではなく、この現実の行動の根本原因となる「無意識の(おも)い」によって形成されるのである。

もう少し、わかりやすい例を挙げよう。仮にAさんとしよう。Aさんが、食欲が落ちたり、体重が減ったりすることで心配になり病院に通うようになったとする。そこで検査を受けたところ、病院からは「ただの疲れでしょう」と言われた。そして薬をもらったりするが、いっこうに回復する気配がない。いったいなぜなのだろうと悩むうちに、「自分はひょっとしてがんなのではないか」と思いこむようになる。そして数か月後に精密検査を受けたところが、胃にがんができていると診断された。

結論からいうと、Aさんは、かからなくてもいいがんを、みずから招き寄せたのである。Aさんは、「がんになったのではないか」という(おも)いを無意識にもちつづけた。これが結果的にほんとうにがんをつくってしまったのだ。

人は、自分が不幸にあったとき、つい「運」のせいにしがちである。あたかも不幸の原因が、自分とは関係のないところにあるように感じているのだ。

しかし、そうではない。ほんとうは、あなたが不幸を招く原因をどこかでつくっているはずなのである。それがあなたの「(おも)い」のなかにあるのだ。

これを簡潔に言い換えると、よろこびの(おも)いを刻めば、その人の明日は「よろこびの明日」となり、苦の(おも)いを刻めば、その人の明日は「苦の明日」となるのである。

ならば、この「(おも)い」が、つねによろこびを刻んでいること。それがなによりも重要なことであるのだ。

まさに人生とは、人の考えたとおりには事は運ばないで、「(おも)い」のとおりに明日がつくられるのである。

だから、災難に遭遇しても生き延びるのは、その人の人生において、まさしくこの自然の法則に沿った「(おも)い」の刻みがあったからにほかならないのである。

その(おも)いの集大成が、その人が歩んできた「生きざま」ということになる。この生きざまが法則にのっとったものであるかどうかで、あなたが天災に遭うか、遭わないかが決定されてしまうのだ。