私たち人間は、いにしえから現在まで、まだ見ぬ明日に思いを馳せつづけてきた。明日がよりよい明日であるようにと祈ってきた。あるいはなにか悪い出来事があるのならばと、明日を前もって知ろうとした。
こうしてさまざまな祭事や占いの習慣が興り、それは現代にいたるまで連綿と繰り返されてきた。
こういった祭事や占いの根底には、まだ見ぬ未来に対する脅えが見え隠れしている。将来に悪い出来事が待ち受けているのではないかという不安がつきまとっている。不安が拭えぬから、人は神に明日を祈り、明日を占うのだ。
あきらかに運命信奉である。「未来はすでに定められている」のだと、無意識のうちに思っているのだ。だからこそ、祈りによってどうにか良い未来にしてもらおうとする。あるいは、予知して、運命を変えようとするのである。
しかし、これが誤りであったのだ。運命は定められてはいない。明日は、今日によって導かれるのだ。
定められているものがあるとすれば、ただ一つである。つまり、「どのような今日を生きたかが、明日をつくる」という法則だけが、定められているのだ。
すべては法則にしたがっている。車のハンドルを右にきれば、車は右に曲がり、左にきれば左に曲がるのだ。湖に石を投げ入れれば、波紋が広がるのである。同様に、人の未来のすべても、もちろん生死でさえも、原因と結果という一定の法則によって導き出された結果にすぎないのだ。
ということは、私たちは、いまの生き方しだいで明日を
未来は自分がつくる。それが法則である。私たちにとって重要なのは、未来を予知することではなく、よりよい未来をつくることなのだ。
さらにいえば、法則は大自然すべてに深く浸透している。地核の温度、太陽光線の流入量、雲と地表の反射率、降雨量、温室効果……。そこには、まさに神の御手としか思えぬような緻密な秩序がある。まさにこの秩序は、私たちすべての生物を生かさんがために系統立てられているのだ。そして、この生命のための秩序をまとめているのが「大自然の法則」である。
先にも述べたように、法則そのものが「生きる方向」へと貫かれているのだ。生きる方向とは、互いが活かしあう方向である。つまり、どの存在もが、自分という個だけではなく、他との連関で生きているということ。つまり、あなたの存在は他の存在なしに語れないし、その逆も真なのである。ならば、あなたは自分という個のためだけでなく、他のためにも在るのだ。
それには、いまあるままの自分をよしとして満足していなければならない。いまの自分をよろこべてはじめて、他のために生きるゆとりが生まれてくる。
すなわち、法則に沿うということは、自分のあるがままの生、つまり「生かされている自分」によろこびをもって、毎日を送るということなのだ。
そういう生きざまを繰り返している人間は、それと知らぬ間に法則によって生の方向へと導かれていく。この人たちは、その「生きざま」を介して、いかなる大災害に遭おうとも必ず生き延びるように方向づけられるのである。