私たち人間は、ときとして傲慢になる。自分たちが「生かされている」ことを忘れ、あたかも自分の意志で、自分の力で生きているかのように錯覚するのだ。
それが一人よがりの思い違いであることは、大自然を見れば一目瞭然である。たとえば空気がなければ生命は生きられない。しかし、その空気を生み出すのは生命である植物だ。植物を食べて生きる動物は、その命を終えるとみずからの体で植物を肥やす。このように地上のすべてのものは円を描いて互いを支えあい、大自然の調和のうちに生かしあい、生かされあっているのである。
天体の運行からミクロの世界の細胞の動きまで、すべてが絶妙なバランスを保ち、組み合わされる。つまり前章でも述べたように、一糸乱れぬ「法則」による秩序が保たれているのである。
この法則のはたらきによって、私たちは自分の意志とはかかわりなく、まさに生をまっとうできる。だが、そのバランスのどこか一部でも崩れたならば、即、生命は危険にさらされるのだ。
宇宙をつかさどる秩序、法則の前に、人類だけが例外であるはずはない。私も、そしてあなたも、「他を活かすために」あってこそ生命の存続を約束されるのだ。
ところが実際はどうであろうか。科学が優先され、文明が高度になるにつれて、人類はこの「生かされている」という根本をすっかり忘れ去ってしまった。その自分で生きているのだという思い上がりが、際限のない我欲を呼び起こした。
自分の利益ばかりを追い求め、欲望はとどまるところを知らず、人間は自然から奪い、他の生物から奪い、はては人間どうしで奪いあい殺しあう。いまや人間は、法則から極端に逸脱した、宇宙・大自然の異端の「破壊者」でしかなくなってしまったかのようだ。
このような人類に対し、いま、地球が激しい拒否反応を起こしている。「自然淘汰」という名の拒否だ。
法則から外れたものはみずから滅びる。それが「自然の営み」としての自然現象だということを、私たちは学んだはずではないか。この現象こそ、「すべての生命は他のためにある」という大宇宙の意志のあらわれであり、生かされている者にとっては不可欠の生存の条件なのだ。
繰り返すが、天がもたらす災いなどというものは存在しない。災いとは、人類によって歪められた秩序を正そうとして地球がみずから行う「大自然の自浄作用」なのである。いわば、その災害をもたらしたものは、人類の生きざまであり、人類そのものなのだ。
天災とはつまり、人災にすぎないことを、私たちはいま一度肝に銘ずる必要がある。