先の神戸にかぎらず、天災のたびに多くの人命が失われる。
ならば、死というものに対して私たちはどういうとらえ方をしたらよいのか。これからますます天災は増えると述べたが、明日はわが身という、まさに生と死のぎりぎりのところにいるいまの全人類にとっては、この問題に真っ正面から取り組む時期が来ているのだ。
この死という問題は、人間の永遠のテーマであり、避けて通れない重要なものなのである。
ひとつ、はっきりしていることがある。それは、人生を終わるときに、その人が生きてきた生きざまがすべて表現されてしまうということである。
人生の最後に、「人間に生まれてよかった」「人生楽しかった」「ありがとう」と言って死ねることが理想だ。そういう人は文字どおり、「大往生」の死にざまである。
ところが、これまでどんなに立派に生きてこようと、死にぎわでもがけば、その人の人生は何であったか考えざるをえない。
たとえば、資産を何億もっていようと、死ぬときに「まだ死にたくない」とか、未練を残して死ねば、その人の人生は失敗だったということなのだ。
やはり、人間としてせっかく生まれてきた以上は、最後は「人間をやってきてよかったな」と言って死ねるのがいちばんいいに決まっている。
しかし、思ったようにいかないのが人生である。
死にざまは絶対にごまかしがきかない。どんなに立派に飾ろうとしても最後は法則どおりの答えしか出ないのだ。その点、厳しいといえる。
死にざまは「生きざまの総決算」である。これまで生きてきた過程がすべて出るということだ。人生をよろこべてプラスの
ならば、死にざまを立派に迎えるには、なによりいま生きているこのときを「最高」の
だから、人生はとにかく「いま」で決まるのだ。いま最高の
だから私は、いまあなたに問いたいのだ。
「いま、最高ですか?」
もし、この返答に
災害はいつなんどきあなたを襲ってくるかもしれないのだ。そのときに、よろこべているか、いつ死んでも最高といえるか、それが問われているのである。