◇第3章 事実は常識を超越する
──私はこうして災難をのがれた
《生命力が弱ると災難を引き寄せる》

苦の刻みが事態を悪化させる

では、この天行力(てんぎょうりき)の貫通を妨げるものとは、いったい何であるのか。

万物が天行力(てんぎょうりき)によって生まれたものであり、そして、天行力(てんぎょうりき)が空間にあまねくみなぎっている以上、本来ならばこれを体内に取りこむことは誰にとってもごく自然のことであり、たやすいことであるはずだ。

しかし、現実には、天行力(てんぎょうりき)がきれいに通る人というのは驚くほど少ないのだ。なぜだろう。体に、天行力(てんぎょうりき)を通しにくくしている障害物があるからだ。その障害物とは何か……。

それは「苦の刻み」である。

天行力(てんぎょうりき)を電気にたとえれば、私たちの体はいわば「伝導体」である。この伝導体である体を「抵抗体」に一転させてしまうのが、「苦の刻み」であるのだ。

思い悩み、つねに気が晴れない。そういう鬱積(うっせき)する苦悩がまるでニクロム線に付着する「(さび)」のように、私たちの体を覆い、天行力(てんぎょうりき)の貫通を妨げるのだ。

この苦の刻みとなる憎悪、妄執、嫉妬、不安などは、すべて「こだわり」というアタマの思考によって誘発される。

たとえば、家庭を崩壊させたくないばかりに夫の浮気をじっと耐える。責めては元も子も失うからとアタマではわかっていても、やはり夫の顔を見るたびにムラムラと憎悪が()く。それを抑えこむと、ついには体調を乱して潰瘍(かいよう)やがんを招くのだが、この場合の「家庭を崩壊させたくない」「元も子も失う」というのが「こだわり」……つまり、自分の幸せに対する固執である。この固執は、首から上のアタマの「思い」が生み出したものである。いっぽう、わかっていても()く憎悪。これが首から下の「(おも)い」である。

この「思い」と「(おも)い」の不一致、あるいはせめぎあいが、すなわち苦の刻みとなるのだ。

苦の刻みは血液の流れをとどこおらせ、ホルモンの代謝を狂わせ、体内に有害な物質を蓄積させていく。これが障害物となって、あらゆる空間にみなぎるエネルギーである天行力(てんぎょうりき)が十分に貫通しなくなる。そして、先の節で述べたように生命力が弱まり、ついに潰瘍やがんを招き、現実生活もマイナスの波動に則して「マイナスの現実」となっていくのである。

だからこそいつも、「苦を刻むな」と言いつづけてきた。苦だけは刻んではならないのである。たとえあの阪神大震災で家や家族を失った方であっても、いま現在病気をかかえている人であっても、苦だけは刻んではならないのだ。

単刀直入にいえば、「天行力(てんぎょうりき)さえ十分に貫通すれば、たいがいのことは自然に好転する」のである。もっといえば、苦境にいるときに「苦を刻む」と、最終的な破滅に直結してしまうのである。

苦境のときこそ、よろこびを()かせて軌道を法則に沿わせ、天行力(てんぎょうりき)を取りこまなければならないというのは、このためである。

しかし、これが難しい。難しいけれども、これだけが唯一の救われる方法である。だから、ずっと十年一日のごとく「アタマを取れ」と言ってきた。アタマのこだわりを取って、どんな状況に置かれようとも「苦を刻まない自分」になれと言ってきた。

──阪神大震災の直後、あの大惨事に生き残った人たちは一様に「よろこべて」いた。助かったというだけで足りていた。自分は生きているのだという基本のなかの基本を素直によろこべていたのだ。

しかし、この「よろこび」が死を迎えるまで永続的につづくのでなければ、人間完成にはいたらない。

人間の(ごう)は、どこまでも深い。だからこそ私たちは天の法則を知り、みずからの生きざまを根底から修正しなければならないのだ。

そういう自分になれた人、実際にアタマを取ってよろこびだけを刻む人間になれた人は、あの阪神大震災のなかにもおられる。この人たちは、人々が直後の「生き残った喜び」から一転して厳しい現実に苦悩し、ふたたび生命力を落としているなかにあって、ひとつも変わらずに生きてあることによろこび、強い生命力に守られているのだ。

これが大自然の波動と一致した人間本来の姿であり、そういう生きざまの人たちは、自然界の厳しい洗礼からものがれることができるのである。