《──あとがきに代えて》

あなたが人類を救うのだ

1995年1月17日、午前6時前、かつて経験したことのないような強烈な戦慄が私の全身を駆け抜けた。私はこのとき、なにかとてつもないことが起きたことを一瞬にして感じ取った。

そして、そのあとにテレビで映し出された、変わり果てた神戸の街並みを見て、一瞬絶句してしまった。なぜもっと早く神戸をはじめ関西の方々に、自然の法則の大切さを伝えきれなかったのか、という自分に対する憤りを感じてしまったからだった。

神戸といえば、昨年(本書初版当時)も2回ほど講演を開いている土地だ。あの液状化現象でかなりのダメージを受けたポートピアでも講演会を行ったことがある。なぜもっと多くの人に真実を伝えきれなかったのか、もっと遠慮せずに天の意志を、そして自然の法則を伝えていたなら……。

 

……神戸の震災のニュースを見ながら、私は15年前のことをふと思い浮かべていた。そう、忘れもしない1980年1月6日未明のことだ。私が〝法源〟としての歩みを始めたその日である。

私は当初、私に与えられた「天行力(てんぎょうりき)」という不可思議な力をどう扱ってよいのかわからず、困惑した。そして、洪水のように私の全身を貫く波動「天声」をどう理解してよいかもわからず、くたくたに疲れ果てたときもあった。

「天声など、人に話したらそれこそ笑い者にされるのではないか、気が狂ったと思われるのではないか」「こんななんの取り柄もない男に人類救済をやれ、などと、私にそんな力があるわけがない。私にほんとうにできるのだろうか」

こんな思いがいつも交錯し、躊躇していると、私に容赦なく天声が降りてくる。「ままよ」と開き直って、ただただ足を前へ進めるしかなかった。

「私のようなこんな出来損ないでも、人様の役に立てることがあるならば、やるしかない。一度は死を覚悟した男、生かされているだけでもありがたいではないか」

そう素直に思えるようになったのは、そうとうあとになってからである。

 

天声は、私に警告を何度も伝えてきている。私は、いくら天声を聴く身であっても、生身の人間であることに変わりはない。だから、正直いって、悩むときもある。

いくら「天行力(てんぎょうりき)」を持ち合わせている私といえども、一人の人間であることには変わりがない。この「人類救済事行(じぎょう)」は、とうてい私一人でできるシロモノではない。日本中の人が、いや世界中の人が一つになって立ち上がって、やっと達成できるものなのだ。

さいわい私のまわりには、ほんとうに我を捨ててこの事行(じぎょう)を後押ししてくれる人たちが増えてきた。そして、これまでに私のもとでアタマを取って、生活のなかによろこびを実証できた人たちが自発的に動いてくれている。

その人たちのなかには、かつては、私のように人生の中途で挫折を感じて、死のうとまで思いつめたという人も多くおられる。そのような方々が、今度は世のため、人のためにお役に立ちたいと身を粉にしているのだ。

私は、やはり人間はどんな人でも、人類全体の繁栄を願わない者はいないということをつくづく感じている。

だから、この人間の本性に賭けたいと(おも)うのだ。「皆がきっと世の中を変えるために立ち上がってくれる」、そう信じている。

事実、多くの学者や知識階級の人たちまで、私がこれまで繰り返し述べてきたことにやっと気づきはじめている。励ましや賛同の声も多数送られてくるのだ。

 

──真理とは、実証されてこそ真理なり

 

私のやってきたアタマを取る指導も、天行力(てんぎょうりき)による人間回復も、すべて実証をともなって本物となってきた。

私は最後にもう一度、この書を手にされたあなたに問いかけたい。

「なぜ、あなたはこのたいへんな時期に生まれてきたのですか」

「いまをほんとうに(はら)からよろこべていますか」

「たとえいま、災難に遭遇してすべてを失っても、それでも生きていることによろこびを感じることができますか」

「あなたは人間として生まれてきてほんとうによかったと思っていますか」 (完)